何にもないと思ってた


   017:何者にも囚われないものでありたかった、なのに

 濡れそぼった靴がびしゃりと飛沫を散らし、中にまで沁みた雨水が果肉の潰れた音を出す。ただ雨に打たれる卜部を通行人は哀れと不信と無関心で一瞥をくれてから去っていく。雨の中で待ちぼうけを食わされた道化に見えることも承知の上だ。夏の近い雨は蒸す。冬の雨は針が刺さるように痛いそれはひどく冷たい。夏の雨はどこか体温や体液と融和する生温さで浸透した。その温さは卜部の表皮を酸のように融かしていく。いつしか境界線を失くしてその場へどろりとした肉塊になってしまうかもしれない。だがそれでもいいと、卜部は思っている。
 目的も理由も意味さえもないあてどないそれの終わりは唐突で、傘をさした和装の藤堂と出くわしたことだった。白木の下駄は飴色に濡れて黒い鼻緒が墨染の艶を持つ。藍鼠の飛白に紺や海松がはしる普段着だ。黒帯に真朱がはしって単調な色彩を引き締めた。藤堂の出来は良くてそれは本業以外にも発揮される。
「その、様子はどうした。傘でもなくした、か」
取ってつけたように途切れるのはそれが付け焼き刃であるからだ。卜部とて戦闘訓練や武道を習得するものとして気配には敏い。誰かが尾行しているのは判っていたがそれが藤堂であることに内心で驚いた。しかも卜部より戦闘力も高い藤堂が、卜部が気づいていることに気付いていないらしいことにさらに驚いた。藤堂はさしている傘以外に荷物もない。女ってなんだってまたちいせェ鞄をいくつも持ち歩くんだ。卜部の疑問は浮かんで消える。連想的ではあったが関係はない。
 「あぁ、何か拭く、ものを…着替えた方がよさそうだな…………私の家、に」
そう言った藤堂の目元が色づいた。灰蒼が潤む。唇を舐めるのは緊張しているからだ。落ち付かずに何度も傘の持ち手を取り換え、そのたびに下駄がからころ鳴った。女性なら忘れない爪皮を用意していない藤堂の足先は跳ねかえった雨水や泥で汚れている。卜部の靴が水浸しであるように藤堂の踝までもを泥水の飛沫が汚す。
 「最近、何かあったのか」
頭は悪くない。腹芸も駆け引きも戦闘も喧嘩も強い。だが藤堂が機微には疎い。卜部は吐き捨てるようにはンと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。あらわな額にはいく筋も髪が濡れ垂れる。その都度、鬱陶しそうにかきあげる卜部を藤堂が黙って見ている。卜部の服は拭えば済む状態ではない。シャツは透けて襟の白さだけが発光したように目を惹き釦や隠し袋との位置は暗示的だ。外でだらしなく出されているシャツの裾からはひたひたと落滴し、はだけてあらわな胸元と透けたシャツのそれとの差はあまりない。
 高い丈に見合う手の甲のくぼみを幾筋も流れが伝う。髪を濡らす雨は許容を超えて耳の裏やうなじのくぼみを見つけて流れ込んだ。領域さえ曖昧にする雨が何もかも融かして藤堂と一緒になってしまえばいいと思う。
「どうした、うら、」
「あんたっこさァ朝比奈ァどうしたんだよ。散々デェトするンだって息まいてたぜ」
朝比奈のことを言えば藤堂の顔がむっと赤らんだ。不満げに尖る唇や言い訳に困って寄せられる眉。凛とした精悍な獣が見せる家畜の顔だ。ざり、と砂を噛むような不快に卜部の内部が荒れ狂う。動揺や機微を表に出さぬくらいには卜部はどこかすれている。素直は美徳で罪だ。だから卜部は自分の何もかもを隠して卑怯でもいいから何をされても、だからなんだよって顔をしてきた。その築いた影が藤堂一人で崩されそうだ。ほころんだ。
 作戦を上手く運んだ卜部に藤堂は褒めと礼を述べて、その大きな手で頬を撫で口づけるほど顔を近づけた。お前でよかった。心臓が、震えた。それは恋のときめきや歓喜の震えやそういうものではなかった。藤堂鏡志朗は俺の壁を崩して入り込んでくる危険なやつだ。卜部が今までの人生で必死に築いたその倫理さえ藤堂は凌駕してしまう。それほどの意志の強さと。卜部が囚われた瞬間だった。
「朝比奈ァ連れずにお一人なんてェ珍しいなァ相伴にあずかっていいってことなンすかこれは? あの眼鏡も寛容ですねェ」
悪しざまで遠慮のない卜部の悪口にも藤堂は動じない。藤堂が止めない。その優しさと甘さと気遣いに吐き気がする。
「はァン、あんたはずいぶん行儀がいいなァ情人のことォ悪く言われたら言い返せよ。それとも、そんなことが気にならない程度の関係なんだ、あんたと朝比奈ァ」
ばぎ、と爆発した熱量が卜部の頬を襲った。宙にとんだ傘がゆらゆらとたゆたうように堕ちてくる。
「ずいぶんと手が早ぇなァ、冷静の名が泣くぜ。…――あんたァなんで、俺をつけたんだよ」
 放り出されて転がる傘の表面の水滴は雫と言うより流れで、畳んでも震っても雨滴が飛び散る。長い間この雨天にいた証拠だ。傘を失くした藤堂の肩や袖、袂さえもが緑青へ染まっていく。処理や手入れが大変だろうと思うのに、藤堂はそういう気遣いを相手にさせない。気にするなと笑って恨み事も言わない。叱らないわけでもないし責めないわけでもない。だからこそ藤堂が赦すと言った時の罪悪感や無力感ややるせなさがいつも卜部の裡を灼いた。吐き捨てた唾は紅く華が咲いたようにジワリと水輪を広げていく。大通りから一本入ったこの路地では諍いは無視するのが暗黙の了解だ。殺伐とした圧政のもと、人々が選んだのはむやみに関わらぬことだ。吐き捨てた紅い唾の中に照る真珠を見つけて卜部は口の中を舌でまさぐる。奥歯の一部が欠けている。それは藤堂の本気さの表れだ。藤堂は手加減を心得る分、必要ないとなれば容赦はしない。
 さらなる激昂を予想したのを裏切って藤堂は拳を握り黙った。肩を落としてから、静かに言った。
「着替えなさい。風邪をひかれても困る。場所と替えは用意する」
かっとなった卜部の手が藤堂の衿を掴んだ。そのまま横道へ突き飛ばす。唐突なことであったから藤堂は受け身を取るのが精一杯だ。掴まれて歪んだ衿は卑猥にくつろがれて胸部をさらす。帯で留められてこそいるが引き締まった腹部の片鱗も見える。袋小路のそこにはいつから誰が放置したかもわからないゴミ溜めだ。誰かが気まぐれに捨てたかごへ溜まったゴミが腐臭を放つ。溢れかえるそれの深層はもうすでに何であるか判らないほどにドロドロに溶けている。その路地裏へ卜部は藤堂を押し倒した。
 はだけた衿から見える胸部や腹部。割れた裾からにょきりと長い脚が伸びて卜部を押しのけようとする。夜半であれば光源は月光とけば立つ広告塔ばかりだ。藤堂の長い脚は白く照ったかと思えば紅や蒼や碧に変わる。ここは藤堂が居を構えるような安定した住宅街などではないのだ。卜部は通常の暮らしと同じくらいの割合でこうした非合法で暮らした。何を呑まされたかも判らず前後不覚になって暴行されたり、暴行されてのびている相手の財布をかすめ取ったりもした。卜部はけして、綺麗なんかじゃない。
 「なァ俺はさ、あんたのことずたずたにできるぜ。あんたはすごく高位にいて、だから底辺を這う俺のことなんか知らない方がいいんだ」
朝比奈だけを相手にしていろ。あの小奇麗で世間知らずで一途な、あの馬鹿だけを見ていろ。汚い世の中とかルールとかそんなものにあんたを囚われてほしくない。朝比奈も藤堂もまだ、お前らは綺麗な位置にいるのだ。だからそこから堕ちないで。

あんたが俺の位置まで堕ちちまったら、俺が手をださねェ理由がなくなっちまうから

朝比奈と甘ったるい恋愛譚でも紡げばいい。レース編みや紋様のように執拗に美しく魅了させ、それでいて手法は教えぬそれでいい。
「俺は何にも関係なくてよかったンだよ」
「卜部、本当に何かあったのか? 少し、お前らしくない」
組み敷かれながら藤堂の問いは真っ当だ。理不尽もへ理屈も卜部の落ち度でしかない。
「お前はもっと、いい人だ」
「うるせェ黙れぇえぇッ」
卜部の手がぐぅと藤堂の喉を絞めた。くっと詰まるような声を漏らして藤堂が唇を結んだ。切れ長な目がが少し見開かれる。喘ぐように喉を反らせ、時折想いだしたように唇を開いた。鳶色の髪がはらはらと散る。乱れた和装がどこか背徳であり美麗だ。
 はだけた衿から覗く胸部や腹部。割れた裾から見える白い脚の大腿部は白く発光しているように目を惹いた。それでも藤堂は苦悶さえ浮かべずに卜部を見つめる。灰蒼の双眸の煌めきが無機的な硝子玉だ。ぞっとした。死体など見慣れているはずなのに手が震えた。だが戦闘機を使用する戦闘で見るのは千切れた腕やねじ曲がった脚や頭の消し飛んだ、どこかしらに欠損のある無残なものばかりだった。人の容を保ちながら変化していく恐怖。退廃的で醜悪でけれど綺麗だと思い知った気がした。藤堂の皮膚が真珠の照りのように仄白く発光したような気がした。

執着も愛着も見せずにただ俺は
それが強さだと思って
なのに

喉の拘束が弛んだ刹那に藤堂の刃が発せられた。藤堂は咳き込みもしない。ひゅう、と喉を鳴らして腹を据える。武道での独特な作法だ。冷静さと同時に体の状態さえも落ち着かせる。

「弱さを知らぬものは強くはなれない」

殴られたことのない子に、殴られた時のことを考えろとは無理な話だ。
薄く笑みながら藤堂はうそぶいた。

 「あんたさぁ、俺がどんなやつにかも判らねェほど抱かれているって言ったらどうする」
嫌う?
憎む?
裏切られたと思う?
あぁなんて甘ったれた問いだろうと卜部は発した言葉を消してしまいたくなる。

干渉するなと言うことは、翻って干渉されることを望んでいるのだ。

「巧雪」
静かな声だ。膝立ちで茫然としている卜部の下で藤堂は乱れた服装を直しもしない。鋭い睥睨のなりをひそめた灰蒼は降雨の前触れのような雨上がりのみずたまりのような、卜部の中へ沁みてしまう。これ以上濡れようもない。それでも藤堂の声は卜部を犯す。

「私は、そのお前たちを邪険にはしたくないし、したつもりもないが…大切に、思う。だから、その、私は」
「お前に『生きること』に執着してほしい。私が言っても説得力はないが、それでも私はお前たちを亡くしたくはない」

「好きだよ」

俺はもう逃げられない。口の端が吊りあがる。降りしきる雨が二人を濡らす。卜部の頬を流れるのは体液なのか雨滴なのかさえも判らない。自嘲する笑みに藤堂は笑んだ。頬がしっとりと潤んで婀娜っぽい。

「…あんたについて、行きます」


《了》

書いている途中で寝オチした。初めてだ…!
とりあえず誤字脱字とかないといいなと思います!        2011年6月19日UP

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